お尻がうやむやな体(ミケランジェロと理想の体展)

国立西洋美術館で開催中の『ミケランジェロと理想の体』展

これは、自分に身体観察力がなくなっちゃったんじゃないかと恐怖を感じるくらい、最初、体のメッセージが聞こえてこなかった。

整体の身体観察の視点で西洋彫刻を見たのは、昨年のレオナルドとミケランジェロ展(三井一号館美術館)以来。そのときも、ミケランジェロの身体へのアプローチの雑さがデッサンや彫刻から感じられて、「ううーん・・・」とテンション下がってしまったのですが。今回、一年経ったわたしなら、なにかミケランジェロの楽しさを見出せるかも、と行ってきました。

 

館内映像で、「ミケランジェロは、4面から彫り進めるのではなく、一方向から彫りだすのだ。大理石に埋まっている人体を彫りだすように。」と『夢十夜』の仏師のように語られていました。

でも、この人、背面の観察いつもお留守だよ・・・背面に興味がないから前面から彫っていくだけじゃないのかしら。

 

ダヴィデ=アポロ像(画像はWashington City Paperから)

この人の彫刻は「休め」で前進力が弱い。

本展に出品されていたダビデ・アポロ像も、若き洗礼者ヨハネ像も、観察すると、「立っているのが疲れる、さっさと寝椅子(カウチ)にゴロンとしたい」という体です。(両方ともお尻を台座に載せて休んでるし)

 

 

 

若き洗礼者ヨハネの像(画像はartnet newsから)

ヨハネの背面は前面と別人のよう。

背面とお尻と脚のあいまいさは、その使い分けのない、寝椅子の姿勢ならではのものです。(これってルネサンス貴族の姿勢ですね。)

背面と前面のコミュニケーションが弱くて、立っている像は、なんだか意思がない。

 

 

 

 

ピエタ(画像はwikipediaから)

一方、ミケランジェロの彫刻で「ピエタ」は、横抱きにされるイエスも、イエスを抱えるマリアも、寝椅子に横たわる姿勢と相似であり、背面からお尻のあいまいな表現に違和感がない。

(身もふたもなく言っちゃうと、ミケランジェロのデッサンのぼろを出さない構図。・・・構図のために人体構造が犠牲になってて、イエスとマリアのお体の状態も気になりますが、それはまた別の機会に。)

「ピエタ」のイエスは、マリアの子であり、救世者であり、亡骸である。すべてを受け入れ抱きかかえるマリア。安らかに休むときがイエスには至福だったと思う。ピエタのイエスは死んでいるけど生きている。

 

ミケランジェロは、信念を曲げずに磔刑にされたイエスのような生き方に敬服していると感じる。自分は描きたくもない画を描いたり、パトロンの庇護が必要だったり(まー、生きるためには仕方ないところもあるよね、どこまで魂売るかってところですが)

 

いろんな作品を見ていくと、この人、根はのんびり屋さんなのに相手に合わせてキッチリしなくちゃいけなくて、制作面で不本意なことも多くて「ぐったりー、休みたーい」を感じます。

うちに来てくれたら、だるさ改善ワークとか体の重心リセットワーク、お尻のワークももちろんして、「休めばー」と言いたいです。きもちもリセットして次へ進めると思うよ。

 

芸術ってデッサンの巧拙や似てるかどうかではなく、何を表現し心に響いてくるかだし、芸大の入学試験をやってるんじゃないから、ミケランジェロはミケランジェロでいいんだと思う。もっと好きなように作って好きなように生きてよかったと思う。

 

わたしが「ううーん・・・」となるのは、「ミケランジェロ、すごいよ!」という見せ方なんだと思う。

本展のタイトルも「ミケランジェロ」ではなく、「ミケランジェロ理想の体」。

理想の体ってなんなんでしょうね。

筋肉モリモリで黄金比で、よく食べよく寝て歯も丈夫?

生きたいように生きればいいし、カウチにゴロンでもいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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